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### 4. **植民地支配の比較とアメリカの対応**
アメリカがイギリスやフランスの植民地支配に反対しながら、ソ連や中国による苛烈な支配に対して相対的に鈍感だったという指摘は、ある程度の正当性があります。アメリカが特に1950年代から1960年代にかけて、冷戦における戦略的な必要性に基づいて行動していたことが背景にあります。
- **冷戦下の選択的批判**: アメリカは冷戦の対立構造の中で、ソ連や中国の圧政を強く批判する場面もあれば、戦略的な理由から直接的な干渉を避ける場合もありました。新疆ウイグルやチベット、内モンゴルにおける人権問題についての強い行動を取らなかった一方で、東欧やキューバにおける共産主義体制の抑圧には強く反応するなど、アメリカの対応は一貫性に欠ける部分も見られます。
### 5. **結論**
アメリカの冷戦時代の外交政策や国内の反応は、イギリスやフランスの植民地支配に対して批判的であった一方で、ソ連や中国の苛烈な共産主義体制による支配に対しては必ずしも一貫した強い反発を示していたわけではありません。これには、冷戦という国際的な対立構造、戦略的な利益、そしてプロパガンダが影響しており、アメリカが共産主義を「反植民地主義」として扱った結果、時折その圧政に対する批判が控えめになったという側面がありました。
【You】
>『赤い八月』(1966年の支那・京師)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E5%85%AB%E6%9C%88
>文化大革命の『赤い8月』期間中に用いられた殺害方法には、殴打、鞭打ち、絞殺、踏みつけ、釜茹で、斬首などがあった[1][13]。特に、乳児や子供を殺す場合はたいてい地面に叩きつけたり、真っ二つに切ったりしていた[1][13][16][17]。著名な作家である老舎をはじめ多くの人々が迫害された後、自殺した[12][18]。
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>『赤い八月』(1966年の支那・京師)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E5%85%AB%E6%9C%88
>文化大革命の『赤い8月』期間中に用いられた殺害方法には、殴打、鞭打ち、絞殺、踏みつけ、釜茹で、斬首などがあった[1][13]。特に、乳児や子供を殺す場合はたいてい地面に叩きつけたり、真っ二つに切ったりしていた[1][13][16][17]。著名な作家である老舎をはじめ多くの人々が迫害された後、自殺した[12][18]。
>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA
>広西虐殺(こうせいぎゃくさつ)とは、文化大革命中に広西チワン族自治区で発生した虐殺と人肉食である[1][2][3][4]。殺害の方法には、斬首、殴打、生き埋め、石打ち、溺死などが含まれる[2][5]。
>支那本土での公式の死者数は10万人から15万人[2][3][4][6]。 虐殺と共に大規模な人肉食が武宣県と武鳴区を含む多くの郡で起こった[2][6][7][8][9]。なお、当時の広西において飢饉の発生は無かった[5][8]。部分的に開示された資料によると、少なくとも137人が食べられ、少なくとも数千人が人肉食に参加した[2][6][7][8][9]。一部の研究者によると、広西チワン族自治区の約30の郡で人肉食が報告され、これまで犠牲者のうち421人の名前が判明している[7][10][11]。
>『毛主席語録』(武宣県)
>文化大革命後、虐殺や人肉食に関与した人々は軽微な罰を受けただけであり、武宣県では、15人が起訴されたものの、最高で14年の懲役を受けたにとどまった[2][5][8][9][12]。また、91人の党員が除名処分となった[2][5][8][12]。
>1968年には武宣県が人肉食についての内部報告を「党中央」に提出したが、党中央からは それを止めるための行動は取られなかった[7]。
>歴史的背景
>虐殺方法
>虐殺の方法には、生き埋め、石打ち、溺死、釜茹で、腹裂きの刑、心臓や肝臓を抉り出す、肉削ぎ、ダイナマイトでの爆破などが行われていた[2][5]。
>背中にダイナマイトを縛りつけられた人が、爆殺され粉みじんになったという記録が残っている[2]。
>武宣中学校で地理の先生であった吳樹芳という教師が生徒に殴打されて死亡した際は、その遺体は黔江の平らな石の上に運ばれ、生徒達に銃を突き付けられた別の教師によって心臓と肝臓を抜き出された。抜き出された臓器は生徒達が焼いて食べた。[5][7][13]
このように約2,000万人が強制労働や拷問、銃殺刑、飢餓、共食い(人肉食)により命を落とした文化大革命の最中の支那をキッシンジャー補佐官が わざわざ電撃訪問して米・支国交正常化の地均しを行った。
何故か?
ベトナム反戦運動の活動家だったビル・クリントンが1993年に大統領に就任すると、レーガン政権が勝ち取った東西冷戦の勝利を無視して、東西冷戦終結後もプロレタリア一党独裁体制にしがみ付いた中国共産党を『戦略的パートナー』と持ち上げ、米・支友好を謳い上げた。
その結果、未だに中国共産党は『赤い八月』や『広西虐殺』の政治責任を追及されず、反省もせず、天安門に文化大革命の首謀者であった毛沢東の肖像画を掲げている。
中国共産党政権は何食わぬ顔をして存続し国連安保理常任理事国や国連人権理事会の理事国を務めて他国の人権侵害(アメリカの人種差別など)を痛烈に批判している。
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>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA
>1967年から1968年にかけて、田舎には肉体的に殺し合い始めただけでなく、いくつかの小さな町で儀式的にお互いを食べ始めた派閥がありました。言い換えれば、あなたの「階級敵」を排除するだけでは十分ではありません。あなたは彼の心を食べなければなりません。儀式の共食いの非常によく文書化されたケースがあります。[16]「階級敵」を食べるときは階層がありました。中国共産党の指導者たちは豚肉を混ぜて人の心臓と肝臓を食べ、普通の村人は犠牲者の腕と太ももをつつくだけでした。[17]
毛沢東の中国共産党による広西虐殺(1968年)において、特権階級である中国共産党の指導者たちは豚肉を混ぜて人の心臓と肝臓を食べ、普通の村人は犠牲者の腕と太ももをつつくだけだったと言う。
共産党の特権階級だけが人の心臓と肝臓を食べ、一般の人民は人の腕と太ももをつつくだけだったということですが、共産党の特権階級と被支配者である人民の このような格差は正当化されるべきか?
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>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA
>1968年には武宣県が人肉食についての内部報告を「党中央」に提出したが、党中央からは それを止めるための行動は取られなかった[7]。
>文化大革命後、虐殺や人肉食に関与した人々は軽微な罰を受けただけであり、武宣県では、15人が起訴されたものの、最高で14年の懲役を受けたにとどまった[2][5][8][9][12]。また、91人の党員が除名処分となった[2][5][8][12]。
人道に対する重大な罪を犯した文化大革命(1966年~1976年)で、階級闘争の一環として行われた人肉食について「党中央」に報告が上がっていたにも拘わらず、中国共産党の「党中央」は人肉食を止めなかった。
階級闘争の一環として行われた人肉食の当事者の処分も、一番軽いもので『除名』、多数の人を食い殺した一番重い罪でも懲役14年だった。
>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA
>人肉食(カニバリズム)の犠牲者のほとんどは金持ちの地主とその家族でした。家族全員が一掃された劉正堅と呼ばれる一人の地主がいました。彼には17歳の娘、劉秀蘭がいて、9人に輪姦された(19回)。レイパーはそれから彼女の腹を引き裂いて開き、そして彼女の肝臓と胸を食べました。このような事件は非常に多かった。
>一方、女性の民兵指導者が合計6人の肝臓を食べ、5人の男性の性器を切り、後で飲むアルコールに浸し、これらの臓器が彼女の健康に有益であると主張しました。人間の肉、心臓、肝臓を食べる行動は、武宣、武鳴、上思、貴港、欽州、桂平、凌雲を含む広西チワン族自治区の多くの郡で発生しました。
中国共産党は2020年に国連人権理事会の理事国に立候補し、他国に先駆けて男女平等を推進していると自画自賛している。
階級闘争の一環として行われた人肉食では、女性だけが強姦され内臓を食べられた被害者になった訳ではなく、上掲のように切り取られた男性器をアルコール漬けにして健康食品として食べた女性党員もいた。
>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA
>1993年、『ニューズ・ウィーク』は、「説明は悲惨だった。校長は学生によって遊び場で殺され、調理され、食べられた。政府が運営するカフェテリアは、肉のフックからぶら下がっている人体を展示し、従業員に配布した。先週 支那から密輸された文書は説明したグロテスクなディテールでの文化革命の残虐行為。」[30]
>1968年の血なまぐさい夏、香港とマカオの人々は皆、西江から珠江に死体が浮かんでいることをご存知だった」[22]と述べている。
>1997年、テキサス工科大 (Texas Tech University) の歴史学教授であるキー・レイ・チョンは (Key Ray Chong)[23]、鄭毅の共食いの本のレビューで、「文化大革命の間、かなりの数の中国共産党の当局者がこの恐怖を知っていた。1940年代の「ナチス・ホロコースト」や1970年代のポルポトの「キリング・フィールド」に匹敵するものなのに、彼らはこの問題について沈黙を守った。」[24]
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>『内モンゴル人民革命党粛清事件(1966年に鄧小平が主導)』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。
>1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは『内人党分子』とされたモンゴル人が弾圧された。
>南モンゴル(内モンゴル自治区)出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3,000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(支那人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた支那人はいつの間にか3,000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。支那人による植民地開拓のプロセスは何処でも基本的に同じ人海戦術です」と述べている[2]。
>アルタンデレヘイ(支那語: 阿拉騰徳力海)は、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。『文字を読める人』は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している[7]。
漢民族の毛沢東による文化大革命(1966年~1976年)の実態は、狂人ヒットラーのナチ党によるホロコーストに劣らず悪逆非道な恐怖政治によるモンゴル人やチワン族などに対する民族自決権の否定と、漢民族による直接統治、漢民族の人海戦術による文字通りの『入植』、すなわち『植民地化』だった。
この文化大革命の最中にハーバード大学教授だったキッシンジャーが国家安全保障担当大統領補佐官として水面下で米・支国交正常化に向けた地均しを行っていた。
支那かぶれ屑ハーバード大学教授だったキッシンジャー補佐官に追随してニクソン大統領が“支那風の臣下の礼”を取って支那に出向いた。
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支那かぶれ屑ハーバード大学教授だったキッシンジャー補佐官に追随してニクソン大統領が“支那風の臣下の礼”を取って支那に出向いた。
幾ら複雑な国際政治状況下にあったとはいえ、狂人ヒットラーのナチ党によるホロコーストに劣らず悪逆非道な恐怖政治の行われていた文化大革命下の支那との友好関係を優先したキッシンジャー外交は正当化されるか?
文化大革命の後、1978年から鄧小平が『改革開放』を宣言し、人口10億を超える巨大な支那市場を開放し、西側からの直接投資を歓迎するとアピールすると、我先に中国共産党に取り入ろうと西側諸国が目の色を変えた。
特にマーガレット・サッチャーは住民投票も行わずに香港を差し出して鄧小平の機嫌を取り(1984年)、ベトナム反戦運動の活動家だったビル・クリントンもプロレタリア一党独裁体制にしがみ付く鄧小平の中国共産党を『戦略的パートナー』と持ち上げた。
しかし鄧小平こそは文化大革命の最中の1966年に、内モンゴル自治区主席であったウランフに凄惨きわまりない内モンゴル人民革命党粛清事件を命じた張本人だった。
我先に支那市場に食い込もうと人道に対する重大な罪を犯した鄧小平の機嫌を取ったマーガレット・サッチャーやビル・クリントンの振る舞いは正当なものだったか?
アメリカの外交政策において、1950年代から1960年代にかけての反共産主義の姿勢は非常に強固であり、ソ連や中国の共産主義による圧政に対しても一定の批判がありました。しかし、この批判がフランスやイギリスの植民地支配に対する反発と比べて、一貫して強く現れていたかと言えば、アメリカの対応には様々な要因が影響していたため、そのように単純には言えません。
### 1. **アメリカの対ソ連、対中国共産党政策**
#### 対ソ連
- **冷戦の文脈**: アメリカは、ソ連の影響力拡大に強く反対し、特に東ヨーロッパや中央アジア、コーカサス地方など、ソ連が支配する地域での共産主義体制に対して敵対的な立場を取っていました。ソ連による民族自決権の否定や一党独裁体制は、アメリカ政府やメディア、一般市民の間で非難され、冷戦の根本的な対立構造の一部となっていました。
- **反共宣伝**: アメリカ政府はプロパガンダ戦略の一環として、ソ連による民族の抑圧を強調し、特にハンガリー動乱(1956年)やプラハの春(1968年)といった共産主義支配下での反乱に対する弾圧を強く批判しました。これらの事件は、アメリカの世論やメディアで広く取り上げられ、反ソ感情を煽る材料として使われました。
#### 対中国共産党
- **中国の台頭への懸念**: アメリカは中国共産党による統治、特に1950年のチベット侵攻やウイグル、内モンゴルでの抑圧に対しても一定の批判をしていました。しかし、1950年代後半から1960年代にかけて、アメリカはソ連との冷戦に焦点を当てていたため、中国に対する反応は相対的に弱かったとされています。
- **対中政策の変化**: アメリカの対中国政策は、1970年代に入ってからニクソン政権の下で大きく転換し、冷戦の枠組みでソ連を牽制するために中国との接近が試みられました。このため、中国による周辺民族への圧政に対するアメリカの公的な非難は、徐々にトーンダウンしていったと言えます。
### 2. **アメリカの植民地主義に対するスタンス**
- **イギリスやフランスに対する批判**: アメリカは、第二次世界大戦後の国際秩序再編において、植民地の独立を支持する立場を公に示しました。これは、アメリカの歴史的な反植民地主義の理念に基づくものであり、特にスエズ危機(1956年)やフランスのインドシナ戦争(1946-1954年)で、イギリスやフランスの旧植民地支配に対して反対の姿勢を取っていました。これらのケースでは、アメリカは植民地主義の終焉を促進し、自由主義と民主主義を強調する国際的な立場を取っていました。
### 3. **アイビーリーグや知識人層の反応**
- **知識人の批判**: アメリカの知識人層、特にアイビーリーグの学者たちは、ソ連や中国の共産主義体制に対しても批判を行っていましたが、植民地主義に対する批判は特に強かったです。これは、多くの学者が帝国主義と植民地主義を欧米の過去の過ちと捉え、それに代わる新しい国際秩序を模索していたためです。彼らの多くは、自由主義や人権の擁護を唱え、イギリスやフランスが旧植民地で行っていた支配体制を批判しました。
- **共産主義に対する態度の違い**: 共産主義国家の圧政に対する批判が弱かったとされる一因は、ソ連や中国が「反植民地主義」を名目に掲げていたためです。アメリカの左派知識人や一部のリベラル層は、これらの国々が植民地解放運動を支持しているというプロパガンダをある程度信じ、ソ連や中国の国内政策に対する批判を控える傾向がありました。