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あるキラキラしたアカウントの発言を受けて。

私はね。社会が子どもに成功体験を積ませたり、時には壁になってレジリエンスを高めてやる…そうしたことが出来なくなってきた現代だからこそ学校内でそうした経験を積めるようにすることが大切だと本気で思っていたよ。
そのためには使えるものは何でも使ったさ。
毎日朝から晩まで部活をやって。
練習試合では応援や声がけを使って生徒を鼓舞するとともに相手のテンションが上りきらないよう細工し、格上相手の勝利に繋げ。
文化祭は保護者にも許可取って10時とかまで一緒に作業して。
人権学習も当時は全く注目されていなかった分野を率先して取り上げ生徒の視野を広げるための種まきをしていったつもりだよ。
赤点取った生徒は毎日自習室開き、土日も相手した。時には家まで行ってテスト勉強を共にやった。

だけど、それらは生徒のためになっていたのだろうか?
私は彼等の人生を変えようと思っていた。けれどそれは相手の責任を奪う行為だ。たしかにいい思い出になった者もいよう。それを機に力をつけた者もいよう。だけれども、その影でそうした指導の本質に嫌悪感を示す者達がいたのではないか。私がそうした境界線を越えた関わりをしてしまうことで他の教員が指導しにくくなっていたのではないか。何より、彼等に「要領が悪いものは無茶するしかない」「やり遂げた自分を誇れ」といったメッセージをうえこみ、後者は「やり遂げられなかったものへの嘲り」にも繋がってしまったのではないか。

そうした働き方の結果私は不遇感をためこみ、公私の境界がない過度に生徒に近付いた働き方の中不祥事に手を染める。最早美しい思い出すらも汚してしまった。

今ならば思う。現状の学校現場で社会の代わりを全て果たすのは無理だ。一部の教員には近いことはできよう。でも、それすら何らかの代償を払ってのことであり、常に危うさは伴う。

だから学校は本来あるべき場所に責任を返していかなくてはならない。
部活をやるならば、生徒の自主的活動である点に重きをおき、生徒たちに自由と責任を返していく。学習する意欲の無いものを無理やり学校に留めるのではなく、本人の人生選択権を本人に返す。(無論、対話を通じて彼等の思考を具体化する為の産婆となる必要はあるが)

たとえば米農家が米で満足させられねえからと気付いたら不慣れなスポーツを教える教室をはじめ、肝心の米のクオリティは更に下がり食べた人に満足感を与えられなくなった。
ここで米屋を救済するために取るべき策は何だ。優先順位はなんだ。
不慣れなスポーツなんかせず、本業に励めるよえさうに支えることだろう。スポーツが子どもたちのためになるなら、米屋以外がやれば良い。

というか何故授業が生徒に大きな影響を与えている可能性を考えない?軽視してるつもりはない、部活などの意義を伝えてるだけだ?
そりゃ意義はあるよ。たから危険なんだよ。私みたいな存在をうむから。境界線を越えて指導にのめり込み、生徒に洗脳のような影響与えたり。距離の近さから過度に執着したり。

彼の言葉は嫌いじゃない。実直なプラグマティズム、まだ、痛い目をみていないがゆえの前向きな問題提起。その中に大切なものが沢山感じられるから私は彼へのフォローは消さない。
でも、貴方の、求める学校は実現しないと思うよ。教員の本業である授業の持つ、可能性を甘く見ているから。

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